ナイーヴな数学者のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 239.連休中に何冊か本を読んだが、ネットで紹介されていた

<<   作成日時 : 2016/05/10 15:17   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

連休中に何冊か本を読んだが、ネットで紹介されていた

       高野秀行:謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉
              新潮社 2016
              ISBN978-4-10-340071-4 C0095

は、まあ、すいすいと読めた。まず、目次を見よう:

        プロローグ 日本は納豆後進国なのか?
        第一章   納豆は外国のソウルフードだった!? チェンマイ/タイ
        第二章   納豆とは何か
        第三章   山のニューヨークの味噌納豆 チェントゥン/ミャンマー
        第四章   火花を散らす納豆ナショナリズム タウンジー/ミャンマー
        第五章   幻の竹納豆を追え! ミッチーナ/ミャンマー
        第六章   アジア納豆は日本の納豆と同じなのか、ちがうのか
        第七章   日本で『アジア納豆』はできるのか 長野県飯田市
        第八章   嬢王陛下の納豆護衛隊 バッタリ/ネパール
        第九章   日本納豆の起源を探る 秋田県南部
        第十章   元・首狩り族の納豆汁 ナガ山地/ミャンマー
        第十一章 味噌民族vs.納豆民族 中国湖南省
        第十二章 謎の雪納豆 岩手県西和賀町
        第十三章 納豆の起源
        エピローグ 手前納豆を超えて
        謝辞
        参考文献

なお、索引はない。

記述の重点は、著者の感想であり、東南アジア山地の少数民族が、納豆を作り、食べていることを現地に取材した旅行記である。納豆は、煮た大豆に納豆菌を作用させて得られる発酵食品であり、この条件さえ満たされれば、どこにあってもおかしくないわけであり、現に、目次に見るように、著者は東南アジアの山岳地帯を実地に踏査したところ、納豆にまつわるさまざまな経験を積むことができた。何よりも興味深いのは、煮た大豆と納豆菌との合わせ方に関しての日本流は極めて特殊で硬直的なものであることの発見である。また、納豆食に関しても、日本の標準的な食用法 ― 著者はたれと合わせて溶いてご飯にかけるとしている ― は、あまりにも単純かつ固定的であり、納豆食の持つ本来の多様性が日本では一般的ではないことを嘆いている。

以前は、(日本の)納豆はどちらかと言えば関東以北の食い物とされていたが、今日の日本では、ほぼ全国で納豆が食べられるようになり、循環器系の医師の指示で制限でもされていない限り、特別に問題視されているわけではない。こうなるには、納豆製造の工業化があり、また、製品の標準化があったわけだが、それとともに失われたものも多かったのであろう。今や、発泡スチロールのパック詰めや紙あるいはプラスティックのカップ詰めの納豆が到るところにある。昨日、(どちらかと言えば、地産地消型の商品構成の)デパ地下で見たパックには、京都、大阪、岐阜の会社のものがあったから、西日本の(在来の)非納豆圏でも今は製造されているようである。ちなみに、藁苞入りの納豆は時折見かけるが、かつては標準的であった経木で三角形に包んだ納豆はめったに見かけなくなった。本書中でも高野氏の言及はないのではないだろうか。

また、高野氏は納豆の食べ方の単調性を嘆かれるが、福岡には納豆料理の専門店があり、ここの納豆は水戸納豆らしいが、かつて浄水通にあったころ一度行ったことがあり、結構混んでいたことを覚えている。現在地に移ってからは、ほぼ毎日、前を通るだけで入ったことはないが盛業のようである。家庭内では、引き割り納豆をオムレツに入れたり、納豆を具に味噌汁を作るくらいのことは誰でもやっているのではないだろうか。著者はラーメンに入れることを推奨されているが、これは試みたことはない。

要するに、食材としての納豆には多様な可能性があり、一旦そのことに気づけば、あとは試してみればいいわけであり、さらに言えば、その土地どちで特有のニュアンスやヴァライェティがあるのは当然で、この点だけを問題にするのなら、わざわざ奥山深く踏み越えて行くには及ぶまい。著者たちは旅先で納豆の多様性に驚き、感動することが大事なので、本書が旅行記、探索記になって、納豆の作り方や納豆料理のレシピの紹介に十分に力を注いではいないことは不思議ではない。

実は、納豆づくりで煮た大豆に作用させるべき納豆菌の調達が興味深い。日本の納豆づくりは、藁の納豆菌に基づいており、それがいつの間にか、納豆菌の自然界での調達先が藁に限られるものかのような思い込みを関係者に植え付けていたようであるが、納豆菌は到るところにおり、黄砂の中にも認められるという(金沢大学においてであったか、黄砂由来の納豆菌で納豆を作る試みがされたと聞いたことがある)。当然、そこら辺の葉っぱにも納豆菌はうじゃうじゃといるであろう。そして、東南アジア山地の納豆づくりは、藁ではなく、イチジクやシダ類、あるいは、芭蕉の葉などに、煮た大豆をくるんで発酵させて得られているという。とすれば、日本でも、藁以外の葉っぱを使って納豆 ― 著者たちは『アジア納豆』という ― ができるのではないか、という疑問が生ずるだろう。

実際、『アジア納豆』の再現実験のための「納豆合宿」を(何回か)行い、いろいろな葉っぱによって納豆製造に成功している。縄文時代にも納豆があったろうということから、栃の葉を使って試みており、よい結果が得られたようである(pp.332-334)。この辺りのところは、前掲のネット書評でも「夏休みの自由研究」のような、わくわく感が伝わって来ると評価しているのだが、そう考えればこそ、もう少しデータを丁寧に示してほしかったように思う。つまり、「夏休みの自由研究」かどうかはともかく、追実験を試みる人たちは多く出てくるに違いない。かれらのために、実験の過程やデータ、留意点を詳しく述べておいてほしかったのである。例えば、納豆菌の他、有毒なセレウス菌のコロニーもあったということだから(p.154)、これは特別な注意点だろう。さらに、「夏休みの自由研究」的な感想だが、納豆菌は大豆以外には作用しないのだろうか。いろいろな豆類を試してみる価値はありそうである。『アジア納豆』から離れるが、いろいろとやってみればよい。様子は全く違うが、豆腐はピーナツからも作れるのである。

余計なことと言えば、本書の記述では、経過や経緯、時間や事実の流れに関することが弱い。丁寧に書き込まれているとは言い難いのである。納豆料理のレシピめいたものを読んでいても、とっさにはイメージが浮かばないところがある。納豆製造にしても納豆料理ににしても、著作にあたって改めて自分で再現を試みるということをしてはいないのではないか、と思われる。同じ素材は必ずしも入手できないだろうが、もし、それだけの理由からだけで、文章の迫力を犠牲にしてしまったようであるのなら、大変残念である。

最後に、印象に残った文章を挙げる。一般に、「納豆民族」は辺境の民であり、過疎化と戦っていることを痛感した著者の感慨である:

        私も鳥の一人だ。自分自身が町に住み、「まちがった生活」を送っているのに、この
       土地の容易でない、でも人間らしい生活の素晴らしさをどうやって伝えられるのか。
       自分が町で伝統とはかけ離れた生活を送っているのに、どうやって自然や伝統を
       大切にしましょうなどと言えるのか。
        何もできないのである。できるのはただ、この土地の人たちがどうやって納豆を作り、
       食べているのかを極力正しく報告することだけである。(pp.295-296)




テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
239.連休中に何冊か本を読んだが、ネットで紹介されていた ナイーヴな数学者のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる