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zoom RSS 243.先日の日経書評欄で皆川博子さんの著書が紹介されていた。皆川さんでなければ書けないというような

<<   作成日時 : 2016/06/30 22:17   >>

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先日の日経書評欄で皆川博子さんの著書が紹介されていた。皆川さんでなければ書けないというような趣旨でもあったので、さて、不勉強なわたくしは、ネット検索で、皆川さんを調べ、幻想文学者であり、しかも、ものすごく偉い人らしいと分かった。「文化功労者」なのだ。

ネットに拠ると、京城出身とあるが、昭和に入ってからのお生まれだから、京城師範附属であったかもしれないが、京城第一高女であったとしても、途中で学校がなくなってしまっただろう(先年亡くなった叔母よりも大分お若いようだが、附属、第一高女であったとしたら、お名前は実は聞いたことがあったかもしれない。なお、このときの書評欄には、時代は遡るが、大正期の京城の若い女性たちの様子を調べた本も紹介されていた ― 当時の京城は欧州文化が真っ先に「大日本帝国」に入って来るという土地だったはずでもある ― その上、「大日本帝国」の大投資がされていたところでもあった ― 京城の都市計画は関東大震災の影響を反映したという話を聞いたことがある)。

ともかく、書評対象だった
  
       皆川博子:クロコダイル路地 T、U
              講談社 2016
              ISBN 978406220008-0、978406220009-7

を早速入手し、三日間で読み終えた。最近は流麗な翻訳が多くはなっているとは言え、やはり、最初から日本語で書かれているものは舞台が18世紀末から19世紀初頭のナントやロンドンであっても、読みやすい。文体や語彙の問題ではなく、日本語の発想に基づいているか欧州語の発想に基づいているかの差があるのだろう。

小説は、最終的にはミステリー仕立てにはなるのだが、入れ子型のかなり複雑な構成で、舞台は、大革命直前のナントからナポレオン帝政期に至るまで、概ね15,6年の間のナントとロンドンであり、社会体制の崩壊に伴う、処刑、戦闘、虐殺、略奪その他もろもろの人間の悪業を背景に、いわば、中身を失ってしまった人間たちの私怨を晴らすための執拗な振る舞いを描いているようである。

特に、Uでは、鰐の剥製が使われる。1 で生きた鰐が現れるのだが、これは象徴であって、大きく開けた邪悪な口を通して、主人公は鰐と一体化した感覚を覚える。鰐は、何でも飲み込む大きな筒のようなもので、中に入ってしまえば、鰐と一体化するわけである。U の剥製は、もはや中身がないのだから、口を開けるまでもなく、象徴性はもっと高いのかもしれない。一方、女主人公は蝋細工で人間の姿を作る。こちらも外観だけで生命はないわけである。鰐の皮をかぶった人間と言っても中身はあったとしてもせいぜい蝋人形というところだろうか。その蝋人形だって、顔や手はそれらしくても、見えない部分は藁か何かを詰込んだずた袋であるわけだし、やはり中身はないわけである。実際、革命期に主人公たちの周辺で繰り返された種々の蛮行は、これらに関わった人たちが皆中身がない人たちだったから成り立ったのかも知れず、では、どんな人間でもそうなるか、と言うと、これは、また、微妙であって、皆川さんの描き出した人物の中には、しっかりと中身のある人間もいる。

皆川さんは、鰐と一体化しているという意識を持った人間を主人公の他、ごく少数にとどめているが、大革命の時代は、多かれ少なかれ、積極的に関わった人間はみな鰐であったに違いない。凄惨な状況を皆川さんは遠慮も斟酌もせずに淡々と描きだす。それはそうだろうと、わたくしは一方で思いつつも、昨今の自己規制だらけの自己保身の塊のような、日本に生きている身らしい、偽善的な気持ち、つまり、皆川さんの記述にやや引いた想いを覚えないというのでもない、という中途半端なところがある。

しかし、人間は「進化」したようでも、本質においては、変わっていまい。肯定するわけでは決してないが(つまりは、臆病なので)、皆川さんが淡々と描写してみせたようなことは、これからだって起こりうるのであり、それは当然のことと思っていなければならない。みんな鰐であり、それは未来永劫変わらないだろう。

では、この小説は全く救いがないか、というと、そうではない。鍵となる句があり、それは

       Quo fata trahint, retrahintque, sequamur

というラテン語の句である。繰り返し、本書に現れる( , はない方がいいらしいが)。

       運命が運び、連れ戻すところにわれわれは従おう

という訳が付されている。ヴェルギリウスの「アエネーイス」第五歌第709行だそうだが、206回記事で挙げた

       ウェルギリウス アエネーイス
              西洋古典叢書
              京都大学学術出版会 2001(4刷 2012)
              ISBN 978-4-87698-126-7

によると、

       [女神の子よ、] われらを運命がどこへ率い、どこへ引き戻そうと、あとに従おう
 
とある。引き続く第710行は

       何があろうと、運がもたらすすべては耐えて乗り越えねばならぬ

とある。前後をざっと見た限りでは、アエネーアスの船団がトロイを脱出して遭遇した苦難に際してらしい。船を4艘失ったとある。『アエネーイス』を丹念に読むのが筋なのだろうが、皆川さんの小説との関わりではどうなるのか、少し考えてみなければなるまい。

ちなみに、上掲のラテン語句であるが、 retrahintque というのが気になって、身近のラテン語学者に問い合わせて、いろいろと教えてもらった。sequamur は接続法現在一人称複数だという。




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