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zoom RSS 246.前回の延長上で、ふと思い出して、 稲垣良典:トマス・アクィナス『神学大全』 講談社選書メチエ

<<   作成日時 : 2016/08/25 22:28   >>

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前回の延長上で、ふと思い出して、

       稲垣良典:トマス・アクィナス『神学大全』
              講談社選書メチエ 2009
              ISBN978-4-06-258454-8

に目を通してみようと思って、手に取ったが、なんだかんだで、全然進んでいない。しかも、最初の一、二章を見ただけで、しばらく放置してしまったので、最初から読み直すしかない。そう思いながら、ぱらぱらとページをめくると、至る所から、示唆的な文言が目に飛び込んでくる。例えば、索引で「ライプニッツ」を見つけたので、該当箇所を見ると、ライプニッツの「正義」の議論が紹介され、その批判への言及もあって、トマスの思想に基づいての整理の試みがされている。

本書の冒頭の「はじめに―『神学大全』をどう読むか」の末尾において、

       トマスの言う「神学」はその全体が知恵の探求であり、そして知恵のみがわれわれに
       人間の幸福をあきらかにしてくれるのですから、知恵の探求はそのまま真実の
       幸福への道を切り開く営みにほかなりません。言いかえると『神学大全』における
       知恵の探求は、トマスという一人の人間が、人間であることを学び、人間であることの
       完全な実現 ― それが「幸福」の意味です ― をめざして行ったパーソナルな探求の
       記録であり、キリスト信者であろうとなかろうと、人間であることを真剣に受けとめる者に
       とっては決して無縁な書物ではないと思うのです。(p.14)

と述べられている。いずれにせよ、いい加減な姿勢で読めるような書物ではないので、落ち着いて読み直し、コメントもそれからにしたい。

実は、前回記事(8月1日)から今日までは、別な作業に集中していて、余り本は読めなかった。何らかの思索を深めていたというのでもないが、遊んでいたというのでもない。現在の勤務先を間もなく退任するので、この間の経験を整理しようとして、手元のメモ類の整理に手を付けて、意外と時間を食ってしまい、やるべきことが後回しになっているということもある。それでも、新聞書評や本屋の店頭で、いくつか気になる本を見つけ、上掲の稲垣先生の本を差し置いて目を通してしまったものもある。

そこでというか、アリバイのためというのでもないが、まず、

       槁爪大三郎:戦争の社会学 はじめての軍事・戦争入門
               光文社新書 2016
               ISBN 978-4-334-03930-1

を挙げよう。この本は、先日の日経の書評欄で紹介されていたものだが、もともとは著者の東京工業大学における講義録であったらしい。少なくとも、著者は「はじめに」でそう言っている。

日本人の軍事や戦争についての一般的な認識に基本的な不備があるらしいことは、わたくしでさえも気づいてはいるが、それが具体的にどのようなものであり、また、その不備が内包する危険性がどの程度の水準のものであるかの評価ができるわけではない。

現象として、日本人は、現在ならば、「軍事」や「戦争」について自分たちが念頭に浮かべることさえ避けていれば、現実の戦争に逢着しないで済むと思い込んでいるかのようであり(少なくとも、そう振る舞うことが是とされており)、その一方で、過去の日本人はと言えば、「軍事」や「戦争」について自分たちが念頭に思い浮かべるように現実の戦争が展開されるはずだと信じ込んでいるかのような行動を是としていた。この両者の姿勢は、本質において全く同じことだが、後者の姿勢こそが惨憺たる亡国の敗戦を招いたことを思い起こすと、前者の姿勢にしても、恐らく、よくない結果を招来したとしても不思議ではないだろうと推測ができる。

どこが問題かというと、「軍事」や「戦争」について、それらの「理念的な構造」を知ることを(われわれが)頭から排除していることであろう。そもそも論であるが、「軍事」や「戦争」は、国際的な文脈で初めて意味を持つものである以上、「理念的な構造」は国際的な了解に基づいたものでなければならないが、日本人は、一般に、このことの理解ができていない、あるいは、むしろ、そのように理解することを(戦前戦後を通じて)社会風潮的に阻害されて来たようである。考えてみれば、「戦争」は(暴力的手段をとるとは言え)国際関係の一種であり、したがって、「戦争」そのものの成立にも国際的な了解が前提になる。ところが、このことが昔から日本人には全く想像できておらず、例えば、「戦陣訓」にせよ、この本で橋本氏が詳細に分析する「統帥綱領」にせよ、国際的な了解は到底得られない代物であり、したがって、こういう考えを前提にしていた組織は、実は、「軍隊」として認知され得るものだったかどうか、疑念が残らざるを得ないのではないだろうか。

ずいぶん昔、以前の勤務先の近くに書店 ― 旭屋だったと思うが ― があった頃、そこで立ち読みした書物の拾い読みで「戦時公法」の知識が日本では教育されて来なかったことが記憶に残っている。本の名前はとうに忘れてしまったが(小室直樹氏の著であったかもしれない)、「軍隊」が目的志向型の組織であり、そのために必要な合理性を備えていなければならないことは知らないわけではなかったので、日本人の軍事観が「講談的」なものらしいことが確認できて、何というか、逃げ道のない想いをしたのである。こういうことが先年の無謀な「戦争」と惨憺たる敗戦による亡国を招いたわけで、情けないというか、腹立たしい限りだが、しかし、この紛いものの「軍事」観、「戦争」観は、日本では、いまだにしっかりと根を張っているようである。帝国陸海軍が官僚機構であったかどうかは、事実関係としては重要かもしれないが、本質的な問題は、「軍事思想」の独善性であり、その結果として、日本国民は筆舌に尽くしがたい損失をしたのであった。

現在の世界での政治的な動機と密着した(準)軍事的な(暴力)行為は、「戦時公法」なるものの想定下の世界で発生が予想されている同種の(準)軍事的な行為と同質であるかどうかはわからない。したがって、今日の世界における異常な事態を、すべて、「軍事」や「戦争」についての理解によって、適切に処理していけるかどうかは保証の限りではないが、「軍事」や「戦争」に対する無知こそ望ましいとする態度では対処不能であることは明らかであろう。

橋本氏がいつごろから日本の軍事に関する把握の仕方の不備に気づき、本書のような基礎的な講義を準備しようとしたかはわからないが、参考文献のリストや一部文献の購入時の苦労の話などから察して、相当に前から意識していたようではある。1948年生まれとのことだから、「先の大戦」については周辺を籠めて全く実感はなかったろう。恐らく、海外体験がきっかけになったのではなかったか、と推測されるが、どうだろうか。「軍事」について論じようというときに、まず、日本国憲法の第九条については中立的な議論を展開するのであると宣言をしなければならないのは、煩わしいと言えば煩わしいのだが、それでも、昔からの日本の「軍事」観や「戦争」観の持ち主からは問題視されるのではないだろうか。

ともかく、目次を挙げておこう:

       はじめに
       序 章 戦争とはなにか
       第二章 古代の戦争
       第三章 中世の戦争
       第四章 火薬革命
       第五章 グロチウスと国際法
       第六章 クラウゼヴィッツの戦争論
       第七章 マハンの海戦論
       第八章 モルトケと参謀本部
       第九章 第一次世界大戦とリデル・ハート
       第一〇章 第二次世界大戦と核兵器
       第一一章 奇妙な日本軍
       第一二章 テロと未来の戦争
       あとがき
       参考文献

このうち、第一一章が、われわれにとって重要である。上述の「統帥綱領」の話も出てくる。日本軍の基本的な難点は、「天皇の軍隊」であったけれど、「国家の軍隊」として定義されては来なかったことであると、橋本氏は指摘する。「天皇の軍隊」と言っても、「天皇」は主体的に機能する存在ではなかったから、軍の内部抗争や独善性を制御するための手段が空であったことであると、橋本氏は指摘している。それにしても、国際的な軍隊についての了解から、これほど離れた存在が成立し続けられたのはなぜか、そこが不思議であり、不審である。

この点については、237回記事で触れた、陸軍の語学教育の問題、あるいは、帝国陸軍の「エリート軍人」が、本来、軍人に要求されるべき知的活動に関心を持っていなかったということの謎にもつながる。一般人レベルからの不審感は、226回記事で触れた日本社会固有の現実回避の現象とも無関係ではない。

こういう現象について相当の責任を負うべき存在はあったのだろうか、今は、どうなのだろうか、もし、そういう存在が怪しまれずに存在し、あるいは、存在し続けたとしたら、それはなぜなのか。これは深刻な設問であって、実際のところ、解答の有無については何も言えない。解らしきものを挙げてみても、それだけでは何の役にも立たないし、大事なことは、われわれが現に起きていることを正しく認識できること、つまり、認識の結果に基づいての行動が我々の存在を強化・保証するような効果を生むものになることである。そして、このためには目先の利害に絡めとられることなく、長いスパン、例えば、最低限十年二十年程度の有効性のある現実認識を志すことであろう。

問題は「軍事」や「戦争」だけではないのである。237回記事のごく一部の再録のようなものではあるが、日本(人)の「(対外)戦争」の概念が(中国を含めた)他国のものと異質であることは、実は、日本(人)には、また、「他」なるものを理解できないことでもある。こうなると、

       日本による「他」の理解なるものは、現実の「他」の姿よりも、日本が自らの思いを
       「他」の形に投影した姿、つまり、「他」を装った日本の変型に過ぎないものなのでは
       ないだろうか。

と、自省するところから始めなければならないのかもしれない。特に、この「他」の理解が変えがたいものだとすると、これの意味する「独善性」やこれに伴う「誤解」をどう制御するかが、その「国際的な文脈」での日本(人)の課題となろう。


なお、もう一冊重要な書物:

       加藤陽子:戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗
              朝日出版社 2016
              ISBN 978-4-255-00940-7 C0095

について論じなければならないが、これは次回にしよう。








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