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zoom RSS 250. 241回記事に、付記の形で触れた里見清一氏の新書2冊

<<   作成日時 : 2016/12/01 16:12   >>

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241回記事に、付記の形で触れた里見清一氏の新書2冊

       里見清一:「医者とはどういう職業か」
              幻冬舎新書(幻冬舎)2016
              ISBN978-4-344-98429-5

       里見清一:「医学の勝利が国家を滅ぼす」
              新潮新書(新潮社) 2016
              ISBN978-4-10-610194-1

の方を(248回記事で約束した残りの1冊)鈴木孝夫先生の本より先に目を通してしまった。

241回記事では、勤務先系列の医学科1年生向けの「授業」の折に、オプジーボなど高額医療の問題を聞いたばかりだったので、公平・公正な医療とはどういうものか、とか、高齢者はいつ死んでもいいという覚悟をすべきではないか、とか、過激なことを述べる一方で、医療・医学のためのもっとも基本的な情報の獲得のために「基本数値人体数理モデル」というべきものを作ることができれば、医学医療情報は、これを基本特許として取得すれば、最終的には「総取り」になってしまうだろうというようなことを述べたことを書いた(そういうことは望ましいことではないとも述べたが。なお、配布した資料の一部の再録もしたが)。

この件のもとの情報の発信源が國頭英夫氏、すなわち、里見氏であることに気づき、早速、新刊本を購入した。新潮新書の方が「高額医療」や「医療の限界」について直接的に論じているが、幻冬舎新書の方は、医師の置かれている立場の困難に重点があるようである。どちらかと言うと、241回記事でのわたくしのスタンスは幻冬舎新書のものの方に近い。実は、上掲241回記事で触れてはいるが、厚生労働省の「医師需給分科会」のサイトを眺め、議事録を読んでいると、ある日、ぱたっと医学科受験生がいなくなってもおかしくないような気さえするほど、医療をめぐる環境は厳しいようではある。

わたくしの241回記事が、里見氏の2冊の本と被るところ大なのは当然と言えば当然であるが、コピーしたわけではなく、論理的必然である。里見氏の高額医療の問題のご指摘も話題を呼んだのは誰もが内心は気にし、心配しているからだろう。しかし、日本の医療がつぶれてしまっては元も子もないわけで、里見氏のご指摘を受け止め、きちんと対応することが今後の関係者の課題であろう。

少し早いようだが、今年も現勤務先の生徒の医学科推薦入試の面接練習が始まった。最初に来た生徒に、医学科志望の理由を聞いていると、マニュアル本にある作り話めいたところがあったので突っ込んだところ、生徒は取り乱してしまい、さらに、地域枠志望ということだったので、あなたが現場に出て働き続ける期間について人口動態予測を調べたかと畳み込んだら、ついに泣き出してしまった。これでは行き過ぎだが、思い込んでいたことに何か確信できないものがあったのであろう。医学科地域枠での応募は、正直に気持ちを述べよ、親の勧めもあったし、医者になりたかった、今の高校に来たのも医学科進学者が多いからだ、と、こう言って何がおかしい、とにかく医者として働きたいという気持ちを中心に回答を組み立てろ、と示唆したけれど、こういう一途な人たちが医学科を志望している間は、まだ、いい医者の誕生が期待できるだろう。

その一方で、最近、驚くような事態に逢着し、文字通り言葉に窮してしまい、ほとんど失神同然になった。

事柄の性質上、抽象的、一般的に述べるが、裕福な家庭に育った才媛が誰もが羨む「受験界の頂点ともいうべき」医学科に入学し、順調に進級し、卒業し、その後、母校にその医学科の教員とともにその医学科の宣伝にもやって来たと、まあ、思い給え。実は、彼女が医師の国家試験を「受け(てはい)なかった」としたら、人はどういうことを想定するだろうか。しかも、受けていれば疑いもなく合格したであろうというような水準の知力の持ち主であり、健康にも問題はなさそうであったとしたら。

立派な大人の女性の判断ではあり、傍の者がとやかく言うべきことではないかもしれないが、「受けなかった」ではなく「受けられなくて今勉強しているの」という話であれば、納得が行くのだが。この話は、以前耳にした、これも受験界の頂点といわれる医学科を卒え、医師免許を取得した後に、医業に就かずに国際金融界に身を投じて親を嘆かせたという人のこととも、また、違う。

将来、日本を代表してほしいような「最上級の人材」が(高校を出たときには、かれらに相応していると自ら信じた水準の)医学科に進み、しかも、在学中も医学への高い関心は持ち続けていながら、最終的には、冷めてしまったということではないだろうか。かれらのような「優秀な人間」から見て、医学や医療の世界には、かれらが一生を賭けても挑戦したいというようなワクワク感が、もはや希薄になっているのではないだろうか。

これは収入の問題ではなく、ブラックであるかどうかでもなくて、まさに、そういうワクワク感の欠如を直感してしまった結果だとしたら、かれらのような感性の持ち主が、今後、医学科進学そのものから遠ざかっていくことも予想される。そうだとしたら、これは非常に深刻な事態ではあるまいか。この点で、例えば、東大の医学部医学科の推薦入試のための要件は完全に間違ったメッセージを発信しているように思う。

これらとは脈絡のないエピソードだが、最近、かかりつけの医師が急死してしまい、一度体調を崩したことのある人ではあったが少し前に受診したときは元気そうだったのでびっくりである。高齢者医療なんて楽しいわけないじゃないですか、と言い、一方、自分が管理しているのだからあなたに死なれるようなことがあっては困ります、とも言っていた人だが、まさか、先に往ってしまうとは予想もしなかった。しかも、この人は、わたくしよりも十年も若いのである。かかりつけの医師に死なれてしまうと、代わりを探さなければならず、一苦労である。幸い、そこは「医療法人化」していたから、医師の代替の問題はあるが、当面、医院の閉鎖がないことは一安心ではあるのだが・・・。

さて、里見氏の書物2冊であるが、内容的には、いずれも技術的なことに関わっているが、しかし、ご指摘はおそらく正しい。また、里見氏が明確に指摘しているということではないが、(職業選択という意味では)医学科に進めば医師にしかなれないということはわかるはずのことだから(医学生はそれなりの医師に誰もが自然になってしまうはずであるのに、その)医師という仕事がワクワク感のないものかも知れないとしたら、それは、医療や医学が今や何か本質的に不自然な領域に入り込んでしまっているかもしれないということにあるからで、そのことについては、若い優秀な人の直感というよりも、実は、誰もが気づいてはいるのだが、気づきに誠実に対せるかどうか、ということもあるのだろう ― エスタブリッシュされてしまうと難しいのである。

人はどうせ死ぬものである。だとしたら、「生きている間はしっかりと生きたい」とは誰もが思うことであろう。医療関係者は、その手伝いをするのが仕事だとは思うが、医師も人である。幻冬舎の本の最終章に紹介されているアメリカの事例など、医師が人であることを忘れてしまった結果のようにも思う。

里見氏のおっしゃるように、価値ある生を支援するのが医療の役割だと、われわれが達観できるかどうか。達観できてもできなくても否応なしに、日本の医療体制は破綻に近づく。公平公正な破綻の仕方も論じておくべきではないだろうか。


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