ナイーヴな数学者のブログ

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<<   作成日時 : 2017/08/10 20:43   >>

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昔の教授の「偲ぶ会」の関係で札幌に来た。札幌に宿泊するのは、何年か前に、かつての勤務先の同窓会支部会に招かれて以来だが、あのときは夕方着いて宴会に出て、翌朝道庁近辺を歩いただけで、大学に立ち寄る余裕もなく帰ったように覚えている。やはり、その頃だと思うが、カミさんと一緒に来て、JRタワーの上で、パデューで一緒だった北大の物理学者夫妻と食事をした記憶があるが、あれは何時だったのだろう。今年の冬は、かつての勤務先のスキー修学旅行の関係で、雪まつりの直前にちらっと立ち寄ったが、生徒たちが大通りをうろうろしている隙に千秋庵に山親爺を買いに行ったように覚えているが、どうも判然としない。

ともかく、そんなわけで、今世紀に入って初めてと言っていいと思うが、札幌駅周辺から大学に掛けて歩いてみた。年月の経過というものは恐ろしいもので、大学の佇まいも何か変わってしまっていたように感じた。かつては、昼間と言えば、ローンには人々がくつろいでいたものだが、休暇中ということもあるかもしれないが、ローンには人がおらず、歩道は、しかし、ツーリストが多く、ただ、かつてのように若い人たちが中心というわけではなかった。

さて、「偲ぶ会」であるが、一応、スピーチ稿は用意した。以下に示しておくが、人名が一杯入ってしまっているのは、仕方がないが、A先生とかBさんと書くのは不自然だろう。

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白田平先生が亡くなられたとの北大の数学教室から連絡を受け、札幌で何か催しがあるのならぜひ参加したいとお答えをした。しかし、今の北大には先生を直接存じ上げていると言える人はもう在籍していない。寂しいことではある。

先生は確か大正11(1922)年11月11日のお生まれだから、北大を定年になられたのは、昭和61(1986)年3月のはず。わたくしは、前年(1985年)6月には九州大学工学部に転じていたが、最終講義のために来札したかどうかの記憶がない。わたくし自身は、後で述べるように、先生に言わば拾っていただいた身であるが、学術上は勝手に振る舞うことを許されていたことに甘えていて研究上の貢献は全くできなかった。

先生の時代、つまり、昭和30年代の後半から昭和60年代にかけての四半世紀、線形偏微分方程式論の研究手法には、大域理論というか、線形偏微分方程式を適当な関数空間内の作用素の方程式として扱う関数解析を前面に出した扱い方から、局所理論というか、偏微分作用素の表象を実解析やフーリエ解析を援用しながら処理をして評価や基本解の構成を行うという扱い方まであった。典型的な教科書としては、吉田耕作先生の Functional Analysisや溝畑茂先生の「偏微分方程式論」を挙げることができよう。先生は、手法的には局所理論に近かったと思われるが、研究者としては、数理物理に動機や淵源を必ずしも持たない線形偏微分方程式を扱うことができるようになった時代に遭遇したことになる。

わたくしの記憶に間違いがなければ、先生は寺坂英孝先生の門下生として中岡稔先生や工藤達二先生と一緒に位相空間論を当初研究しておられた。当時は、ホモロジー代数やカテゴリー論が流行り出した頃で、古典的な微分方程式の研究者はともかく、幾何や代数の研究者を志す人たちは勉強を欠かさなかった時代である。そのような折に、南雲道夫先生のゼミでのBernard Malgrange の論文購読を手伝うことになり、この縁で、偏微分方程式の研究を始められたと聞いたように思う。

ずっと後になるが、北大時代、セミナーの後など、グランドホテルのカフェか雪印パーラー、あるいは千秋庵で、先生を囲んでコーヒーを飲むことがよくあった。そんなときに、数学者は詩人です、と言っておられたと記憶している。こういうときの雑談で、Calderón-Zygmund の特異積分作用素の評価の要点の話で、球面調和関数による核関数の展開を丁寧に要領よく述べられたことを思い出す(参考:白田‐浅野和雄1970)。Atiyah-Singer の理論が話題になった時も、真っ先に勉強しておられた。新知見の吸収・咀嚼に貪欲であったわけであるが、狭い範囲で自足して恥じない人間に対しては厳しく容赦のない方であった。

久保田幸次先生は、白田先生の阪大時代からのお弟子さんで、北大出身ということもあって、一緒に北大に赴任された。阪大時代の先生のご様子については、久保田先生が一番ご存知のことで、いい加減なことは言えない。亡くなられた熊ノ郷準先生も久保田先生と同じころのはずである。阪大時代の先生のお仕事では、ある種の線形位相空間の局所凸位相の定義についての反例や変数係数の偏微分方程式の一意接続性についての注意は有名である。

さて、前後するが、白田先生は北大赴任後の研究テーマとして高階の線形双曲型方程式の初期値境界値混合問題に力を注がれた。ゼミの主催者として弟子を育てながら研究する対象として、偏微分方程式固有の知識に限定されず、また、種々のアプローチもあって、解析学の最新の知識は言うまでもなく、幾何や代数からの知恵も不可欠であると考えられたのだろう。実際、久保田先生に加えて、上見錬太郎先生という協力者を得、また、浅野和雄さんをはじめとする学生たちを育て、業績を重ねられたことは皆さまご承知の通りである。

先生は、教授として、北大理学部数学教室と担当講座の運営に責任があった。講座運営に関しては、差し当たって助教授の選任が課題であって、あちこち手を尽くされたらしい。そんな折、1969年の11月だったか、あるいは、年が明けてからだったか、京大数研でのシンポジウムで、わたくしはNikol’skii 型の埋蔵定理を Lions-Peetre の補間空間論と吉田耕作流の作用素解析を組み合わせて論じた。このシンポジウムには、先生も出席しておられ、声を掛けていただいたのが縁で、1970年の8月1日付で、わたくしは北大に赴任した。

先生の数学教室の運営については、わたくしの立場上、想像するしかない。わたくしの赴任時、数学科の教授は、白田先生の他、桂田芳枝、倉持善次郎、都筑俊郎、鈴木治夫の諸先生、やがて、越昭三、さらに遅れて、土井公二のお二人が加わった。数学教室の理想像を巡っての教授人事はなかなか大変そうであって、何も聞こえてこなかったというわけではなかったが。

助教授・講師は、永井珠夫、田中博、木村浩、小林一章の皆さんとわたくし、やがて、越先生のところに一瀬孝さん、そして、土井先生のところには森田康夫さんが来た。一番長居をしたのは、ほぼ15年いたわたくしで、要するに、商品価値が低かったということに尽きるのであるが、今更どうでもよい。反省点だが、在職中は、白田先生にはひたすら心配を掛けただけだったなとつくづく思う。余分な話ではあるが、先生からは当時化学第二学科にいた計算化学(C60の予言)の大澤映二先生を紹介された。大澤先生には後に時代がようやく追いついてきたが、わたくしは雑念に気を散らし続けただけであった。

白田先生は、研究者としての最晩年、流体の方程式に強い関心を示しておられたが、この方面を別にすれば、先生が関わってきた数学的課題の大半は、もう歴史に属しているだろう。白田先生に研究上遠くはなかった溝畑茂先生、山口昌哉先生、小竹武先生、…、はすでに鬼籍にある。これら先人たちの人物やお仕事を中心に、日本の数学史の記述に新しい章を加える準備をすべき時代になっていると思う。昭和期の「日本数学史」の一節には、北大時代の白田先生や、先生が始められた夏の偏微分方程式論シンポジウムが当然入るはずである。
                                                          
                                                               (了)

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先生の論文、特に、後期のものは難解で、講演を聞いてもよくわからないことが多かった。わかろうとしないお前が悪いと言われれば、それまでのようだが、今回、北大の数学教室から提供を受けた論文コピーを眺めていて、難解であった理由の見当が少し付いたように思った。

これは、先生の論文に限らず、一般に今でも日本人の(数学)論文に見られる傾向であるが、「研究内容の言語化」への配慮が不足しているのである。したがって、論文が著者本人(共著者や共同研究者を含む)の世界でしか通用しないような符牒化を起こすのである。書き方が悪いということではない。短報ないし報文は、当座の成果報告だから、ある程度符牒化してしまうのは当然であるが、論文は、思想と理論の展開、あるいは、少なくとも萌芽としての主張であり、当然ながら、想定される読者は広大である。つまり、 publication とは「公表」というより「公的化」であるということが、われわれには十分に認識できていなかったということである。

これについては、考えることもいくつかあるのだが、別の機会(!)にしたい。


なお、今回の札幌行きでは搭乗機の座席の関係で、新千歳に着陸後、ターミナルビルに近づいてから、待機中のボーディング・ブリッジのオペレーターの様子がよく見えた。その行動は恐らく会社の指示に基づくことであろうが、何となく、今の日本の社会の公的空間と私的空間の混同が見えたような気がした。

機体の接近中は、いくら高度の安全装置が随所にあるとしても、何が起きるかわからないものであろう。パイロットはもちろんだが、ボーディング・ブリッジのオペレーターを含む地上係員も無事到着まで緊張感を以って事に当たらなければならないのは言うまでもない。とすれば、ボーディング・ブリッジのオペレーターは接近する機体を凝視しつつ機体の停止に備えて移動の準備を心掛けていなければならないはずである。安全に関わることである。運航会社の幹部はもちろん、乗客を含めて、誰もがそう思うであろう。

ところが、ボーディングブリッジのオペレーターは、少なくともわたくしの座席から見えている間は最敬礼をして(つまり、ボーディングブリッジの床面を見て)機体の接近を待ち、停止してからようやく頭を上げたのであった。「おもてなし」のつもりかも知れないが、これは間違っている。安全が第一であり、そのための姿勢には揺るぎはありませんよ、と世に(つまり、公的空間に)行動で発信することが大事であるはずだが、オペレーターの行動は、critical moment での最敬礼という表面的な好感度の優先、つまり、私的空間を安全性よりも重視していますというメッセージの発信になっている。
 
運航会社が本来業務とは違う方向性の力の入れ方をしていることは不安要素である。オペレーターに最敬礼をさせて到着機を出迎えさせることは必ずしも運航の安全性に直ちに影響を与えるものではないかもしれないが、しかし、かつて我が国の大手の航空会社が経営難に陥った際にも、羽田や福岡での使用ターミナルや駐車場の位置などの選択が顧客の利便性よりも会社のメンツを優先しているかのような不審な印象をかねてから覚えていたことを思い出す。


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