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<<   作成日時 : 2016/08/01 16:24   >>

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天神ジュンク堂で

       山内志朗:感じるスコラ哲学 存在と神を味わった中世
              慶應義塾大学出版会 2016
              ISBN978-4-7664-2319-8

という本を見つけ、若干の逡巡ののち購入した。「スコラ哲学」に対する関心が重要であることは否定できない。しかし、「感じる」とは…。この本は書評コーナーにあったので、何かの新聞書評にあったのだろうが、未見であった(一応、付記参照)。ともかく、手軽に「スコラ哲学」のエッセンスを学べそうで便利ではないか、と、まあ、こんなわけで、購入に至ったわけである。

例によって、「前書き」と「終わりに」にまず目を通した。「前書き―スコラ哲学の感覚」の最後の段落に


       概念は現実化することがなくても成り立っています。命題が真埋としてなりたつために、
       充足する個体や事例が存在しなくても構いません。しかし概念を担う肉体がなければ
       成就しない事柄もあります。個体性は概念として存在するだけでは充足されることは
       ありません。個体的概念が神の知性の中にあっても、個体がこの世界に存在するという
       出来事は成立していません。この世界に登場しなければ、感覚も痛みも経験する必要は
       ないはずです。ところが個体ということは、肉体において担う者が存在し、その者が演じ
       遂行してこそ、成就するものです。世界や個体の一回性の意味はそこにあります。
       個体の存在 に感覚が随伴する、と思います。「随伴」とは、本質的契機としてかならず
       あるわけではないとしても、常に伴って存在しているものです。この感覚の
       随伴性=偶有性を問うことがこの本の課題なのです。(p.9)

とある。冒頭の二つの文は、わたくしが拠る立場とは異なるが、「思うとはどういうことか」「あるとはどういうことか」を論ずる上での無制約な状況のうちでは否定はできない。だが、矛盾と非存在を扱うことはできないので(あるいは、制御不能なので)、そういうものを扱っているかのような姿勢には欺瞞が潜んでいるわけである。実際、これらの文章はレトリックであって、この段落で重要なのは、三番目の文章以下、すなわち、「概念」は「神」にあり、この世界の個々の「個体」は、その具体化、現実化として生起し、成就するものであって、「一回性」が特徴となるということの指摘であろう。「個体」には(「肉」があり)必ず「感覚」が伴うが、「概念」そのものは「感覚」がない。こう考えると、末尾の文の意味がよくわかる。

そこで、「終わりに」を見ると、ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」や「このもの性」への言及があり、

       痛みとは〈肉〉の同質性のことなのです。(p.182)

とあって、さらに、キリストの受難を説いて、

       …世界という一つの、同じ〈肉〉という地平の上で、数多くの痛みが、多様な場所で
       励起しているのです。世界と言うのは〈肉〉の同質性を表していないのでしょうか。そして、
       そのことと存在一義性」は重ならないでしょうか。(p.183)

とあり、

       だから、ざっくり一言で言えば、存在の一義性は〈肉〉の同質性のことなのです。(p.183)

そこで、本書であるが、

       私がこの本で示したかったのは、感覚という方向(sensus)の向く先なのです。(p.183)

となる。

前書きと後書きとを見てしまったから、後は、目次を記せば、まあ、「読んだ」ことになるのだろうが、その前に、気になった鍵語があって、それは「ハビトゥス」である。実際、「終わりに」の末尾近くでも、

       感覚は現在を図る器官ですが、経験において繰り返され、記憶や身体図式の中に
       とどまるものとなり、未来を組み込む能力になったときにがハビトゥスが生まれます。(p.183)

とある。断片的だが、第七章においても、

       私がいつも考えているのは、以下のことなのです。つまり、ア・プリオリとア・ポステリオリ、
       内部と外部、肯定と否定といった二項的対立は、命題の次元では真偽のいずれかを
       定めざるをえない状況のもとで成立している両面であって、現実はいつも形成過程の
       途上にあり、その第三項を排除するような二項対立は成立していない、ということです。
       ですから、私の問題意識はハビトゥスに始まり、ハビトゥスに終わると言っても構わない
       のです。私の言いたいのはいつもその一言でしかないのです。(p.175)

とある。間をすっ飛ばしての話だが、第七章の末尾の分は、

       私が、この本で書きたかったのは、「受動性は基体に属する」という思想の系譜が
       哲学史の裏街道として太く流れてきたこと、キリスト教神学の基軸であることを示すこと
       だったのです。(p.177)

である。

さて、そこで、その「ハビトゥス」だが、著者の他の本を読まなければいけないらしいという示唆(p.97)だけあって、きちんと論じられているようではない。定義らしきものを探すと、

       ハビトゥスとは日本語で言う習慣よりも奥行きのある言葉で、身体や精神を座として
       そこに根付き、消滅しがたく備わっている能力のことであり、行為を結果として直接
       生み出す基体なのです。
       つまり、ハビトゥスとは、不動の同一性を有するとは言えないとしても、
       「己を持する(se habere)」ための能力と言うこともできます。(p.107-108)

がある。

前後するが、

       私の考えでは、人生の目的はあるわけでもなく、ないわけでもない、と言いたいのです。
       人生の目的は外的な対象として存在するようなものではなく、ハビトゥスなのですから、
       あるのでもなく、ないのでもないものであり、そのような仕方で存在する限り、ハビトゥスは
       ハビトゥスとして持続していきます。(p.140)

ともある。


この本は、非常に難解で、簡単には整理できないのだが、「スコラ哲学」を「基体」としての人間と「神」との関係を説明する記述体系と概括してしまうと、その体系化には種々あるが、いずれにおいても「受動性は基体に属する」、具体的には、「感じる」ことが本質であろうと、そう著者は主張したいのではないだろうか、という気がする。

改めて、目次を示す:

       前書き ー スコラ哲学の感覚
      I 中世の五感
       第一章 中世における「感じる」こと
       第二章 霊的感覚と味覚
       第三章 ワインの中の中世神学
       第四章 神に酔う神学
      II ハビトゥスから神秘主義へ
       第五章 ハビトゥスの形而上学
       第六章 享受の神学的背景
       第七章 神秘主義という感覚
       終わりに
       初出一覧・参考文献


本書は、極めて優れた著述ではあると思うが、最大にして致命的な欠陥は、索引がないことである。エッセイ集だから、索引が要らないということはあるまい。


付記:後日、ブックアサヒコムに(URL省略)紹介記事を見つけた。わたくしは斯界の素人ではあるが、本書に一応目を通した人間ではある。それゆえ、この紹介記事の見出しを見、内容を眺めて、評者の何というか度胸というべきものに、驚きはなかったものの、はなはだしく「感じる」ものがあった。

付記2:本来、この記事は7月中にアップできるはずであったが、その…

       味わうことは知恵(sapientia)に属し、見ることは知性(intellectus)に属すと
       言われています(p.29)

という文言に感心しているうちに尿酸値が高くなり、関連して生じた身体的な現象の処理で遅れてしまった。

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