ナイーヴな数学者のブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 249.前回、稲垣先生や鈴木先生の本を改めて論じたいと言いながら、なかなか進まないまま、新聞広告で気

<<   作成日時 : 2016/11/29 13:30   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

前回、稲垣先生や鈴木先生の本を改めて論じたいと言いながら、なかなか進まないまま、新聞広告で気づいた

       川添愛:精霊の箱 チューリングマシンをめぐる冒険 上下
            東京大学出版会 2016
            上 ISBN978-4-13-063363-5
            下 ISBN978-4-13-063364-2

に目を通していたものだから、こちらが先になってしまった。

この本は、212回記事で言及した、同じ著者の「白と黒の扉」の続篇であって、ファンタジーとしての筋の展開を万能テューリング機の話題と絡めて行っているということは変わらない(チューリングマシンや計算理論については、下巻の巻末「解説」で要領よく説明され、文献の紹介もある)。

こう言ってしまっては身も蓋もないのだが、例によって、書中の人名や地名の由来を想像しようとすると、結構考えさせられる。下巻の「あとがき」によると、著者の家族は「南北」にわたるらしいが、「北」がどこなのかわからない。

「南」が九州であることは察しは付くが、的確にどこかは(どうでもよいとは言え)見当が付かない。それでも、マガセア国とかメルク語とあれば、「天ヶ瀬」とか「久留米」が思い浮かぶ。人名はよくわからないが、ユフィンやザフィーダは、湯布院や太宰府、イシュラヌは不知火か(ユフィン・クースとあるから、湯布院・玖珠か)。スウィーツ類からも来ているのもあるかも知れない。例えば、ガレット。ケーランやトゥーリマンなどは博多銘菓を想起させるし、ヤークフも(字順を変えると)博多名物と無縁ではない。しかし、このファンタジーのすべての基礎のクージュ・レザン兄弟は、人名ではあるが、多分、「九重連山」だろう。地名も、セリブ村とあれば、「背振」を想うが、オーフィリー宮殿は大濠からか。

こういう読み方は邪道かもしれないが、きちんと読もうとすると、結構、大変ではある。公開鍵の暗号の話まで組み込んでしまっているし。

さて、前回からの懸案の一、

       稲垣良典::カトリック入門 − 日本文化からのアプローチ
              筑摩書房(ちくま新書) 2016
              ISBN978-4-480-06914-6 C0216

であるが、ずっと持ち歩いているが、少し目を通すと睡魔に襲われ、なかなか終章に辿り着けない。もっとも「おわりに」は「はじめに」に引き続いて目を通してしまったが、本書の難しさは、知識的なところにあるのではない。著者とは全く宗教的な境地の違う人間であるわたくしが、著者の言わむとするところを想像しながらページを繰らなければならないところにある。この感慨は、(ずいぶん昔だが、41回記事で触れた)鈴木大拙師の「日本的霊性」に目を通そうとしながら覚えたものに近い。何というか、残された我が身の時間を考えると、膨大な宗教的文献と付き合っている暇はないと思っているのだが、この辺りの感覚が深く身に付いた人に対しては「到底及ばない」と(大体、こんなことを言うのは不遜ではあるが)思わざるを得ない。

それにしても、本書をなぜ手に取ったのか、と言えば、「はじめに」に

       […]日本人がカトリシズムという宗教を見る目、と言うよりカトリシズムと出会う
       日本人の心は、四百数十年前に初めて出会ったカトリシズムに対して両極端―熱烈・純粋で
       勇気ある受容と激しく執拗な敵意ある排斥―とも言える反応を示した日本文化の影響の
       下にある[…]

さらに、

       問題はカトリシズムを運んできた西洋文化と日本文化との関係にとどまるものではない。
       むしろ本当の問題は宗教としてのカトリシズムそのものと日本文化、とくにその中核にある
       日本的霊性・宗教性との関係のうちにある、と見るべきではないだろうか

(pp.12-13)とあれば、そして、特に、

       […]カトリシズムと日本文化の接触と葛藤の歴史を振り返ることで、葛藤を引き起こした
       ものはなんであるかをつきとめ、カトリシズムが日本文化、とくにその中核である
       霊性・宗教性をより豊かで完全なものへと変容させるような仕方で受容される道を
       探ることが、本書の課題である(pp.14-15)

とあれば、当ブログの趣旨上、手に取らない方がおかしいであろう。

順序としては、ここでなくてもよいが、目次を挙げよう:

        はじめに
       第一章 カトリックと日本文化の出会い
        1.キリシタン時代の「排耶書」
        2.西田幾多郎と「創造」の概念
        3.カトリシズムと日本的霊性
       第二章 カトリシズムと「超自然」
        1.「超自然」の意味
        2.超自然と形而上学
        3.超自然と自然
        4.超自然と現存
       第三章 信仰と理性
        1.「信仰」とは何か
        2.信仰―賜物、そして徳
        3.信仰・希望・愛
        4.信仰と理性
       第四章 「創造」とは何か
        1.「一神教」と「創造主」
        2.創造と進化
        3.創造と救い
        4.創造と悪
        5.創造と日本的霊性
       第五章 キリストとは何者か
        1.歴史のイエスと信仰のキリスト
        2.イエスの「秘密」
        3.キリストの神秘
        4.キリスト信仰
        5.日本的霊性とキリスト信仰
       第六章 「神の母」マリア
        1.聖母マリア―信心と神学
        2.聖書と「神の母」マリア
        3.聖母神学の形成
        4.「無原罪の御宿り」をめぐって
        5.日本的霊性と聖母マリア
       第七章 救いと教会
        1.「宗教改革」について
        2.教会とは何か
        3.秘跡(サクラメント)としての教会
        おわりに
        参考文献

しかし、こう並べてみると、とんでもない書物であることがわかる。到底、斜め読みのいい加減なコメントは無理なのである。その上、スコラ哲学者ではあるが神学者ではないとおっしゃる著者が、何か、わたくしの積年の疑問の解決のヒントを与えてくださったとも言いにくい。むしろ、今まで余り気にしてはいなかったことが、一体どういうことなのかと改めて気になったことがある。

例えば、今の段階では、漫然と読んできたために記憶も定かではないのだが、「創造(主)」ということの意味である。もとより、(物質的な)「創造」とか「第一原因」とかを不問にして、その「働き」だけを観察して、見える部分については可能な限り正確に記述しようという態度はある(例えば、Fourier の「熱の解析的理論」の序章冒頭)。

だが、それは「理性神」が暗黙に想定されていた場合であって、今日の自然科学では「理性神」を想定することはなく、「観察」「説明」「理解」をもっぱらとしていて、その際、「数学」が必須であるからと言って、「数学」による記述可能性には限界があることも分かっており、「数学」も「創造主」の記述に供されるようなものでは到底ないので、そもそも我々は何をしているのか、とは思う。では、(カトリシズムの)「神」と我々の関わりは、どこにあるのか、その問いの答えの一端を垣間見せてくれるかもしれないのが「創造」ということになるらしいが、それを理解することが難しいのである。

第二章第1節で、著者は因果律(つまり、数学的原理)を超えた存在として創造主なる神の存在を示唆した上で、

       しかし、創造主なる神が「何である」かについては人間の理性のみによっては全く
       知りえない。同様に神自身の働きとしての「創造」についても理性の身に
       よっては全く知りえない。[…]それは神の啓示によってのみわれわれに知られる
       神秘であり、超自然に属することなのである(p.52)

と指摘する。つまり、「創造」とは「神」そのものに他ならず、したがって、それが何であるかは本来われわれには知りえないが、「啓示」によって一端を垣間見ることができる「神秘」ということになるのであろうか。ただし、ここで著者は重要な注意をする。すなわち、

       神自身の働きとしての「創造」は[]、われわれ自身の存在、生命、働きのすべてが
       それなしには虚無となるような、われわれにとって最も親密な実在なのである。
       われわれは超自然としての「創造」について理性のみでは全く知りえないが、信仰の光に
       照明されることによって「創造」が神の測り難い慈みと知恵の顕現であることを悟る。
       […](pp.52-53)

つまり、ここで展開されている「創造」感は、非常に洗練されたもので、「信仰の光」という鍵があるにしても、例えば、これからますますアメリカで吹き荒れるかもしれないID(インテリジェント・デザイン)のようなナイーヴなものではない。「神」は無限であり、その属性は有限の存在には到底知り得るものではないから、当然と言えば、当然ではある。

しかし、われわれの霊性との関わりについては、説明を求めようとすることは自然であろう。ここからが難しい。「無限」と「啓示」と「信仰」が、「父と子と霊」の「三位一体」に集約され、キリストという「受肉」の神秘によって、キリスト(神の人的位相である)を介して、人間と神とが「顔と顔と合わせて見る」に到るのが、カトリシズムの根幹ということらしい。キリストの「受肉」の神秘は聖母マリアの受胎の秘蹟を要し、また、教会と教皇の「無謬性」、つまり、キリストの代行者である要件としてのものが従う。聖書の記述をどう解釈するかではなく、信仰によって啓示を受け取るのである、ということになる(らしい)。

神学が重要である所以であって、到底、(例えば、イエズス会系の学校にいた頃のわたくしのような)子供には洞察の及ばないところである。しかも、稲垣先生は、「顔と顔と合わせて」絶対者と接するという過程の重要性を(カトリック神学の成果をもとに)強調されている。しかも、ここが「日本的霊性」と「カトリシズム」との、何というか、分かれ道だという指摘になっている。

ところで、本書に惹かれたのは、カトリシズムと日本的霊性の関係について論じられているからであると述べた。この辺りになると、到底、市井の人間には口を挟めそうもないことではあるが、かと言って、「日本」的なことならわかるかと言えば、決してそうではない。本書でも引用があるが、鈴木大拙師の「日本的霊性」には「妙好人」という境地の人たちの話が出てくる。これは、真宗的な(全的な)他力本願の生き方を指すのだろうが、この境地が決して一朝一夕で到りつけるものではない、つまり、それなりの「修行」を経てのものらしいとすると、おのれの現実と「浄土」における生 ー 絶対者の無辺の大悲の光の中にわが身を投げ入れ、この大悲に摂取される―との間にある絶対的な差を埋める達観というべきものを生きることになるのであろう。

稲垣先生の書物を読みながらの感想は、不遜ながら、カトリシズムはこの「達観」を「キリスト」を通してシステム化できていたが、日本的霊性においては、その手立ては修行―徹底的な絶対者の内在の肯定、しかも、稲垣先生の注意であるが、絶対者の限りない超越性を自覚することなしには行いえないもの―によらなければならないらしいということである。

以上は、イエズス会系の学校で学んで、「神」なる存在が(これは誤記憶なのかも知れないが)(特定の宗教を超えての)普遍的な意味がある(つまり、個々の宗教的尊崇に力点を置くのは間違いである)ものであることは教えられて来たつもりであるが、結局のところ、到底、当時のわたくしたち(=子供)には理解不能な、洗練性そのものの理念であるとは思いもよらなかったという「白状」である。

さて、本書の記述に戻ると、第4章末尾(日本的霊性とカトリシズムが共有するもの)において、

       神の働きは神の実体ないし本質と同一であるから、無から万物を創造する神の
       創造の働きとは何であるかを理解するためには、以下のことを(信仰に導かれて)
       認識することが何より必要である。すなわち、最高に一である神においては父、子、霊
       という三つのペルソナの間の知恵と愛の交わり―神の内的生命―へとわれわれ人間を
       招き入れることを望む慈しみと恵みに満ちた神であり、この限りない慈しみこそ
       神の本質である、ということである(pp.162-163)。

とあり、

       実に、イエス・キリストは神の慈しみ深さをこの上なく明らかに示すためにわれわれ
       人間の間で生き、十字架の死に到るまでわれわれを愛しぬかれた、と言えるのである
       (p.163)

とある。

第四章の最後の文は、

       カトリシズムが一貫して保持し、伝えてきた神の本質・本性
       ―「絶対者が絶対者であることの決定的な証し」―である限りない慈しみ、正義を超え、
       完成する罪の赦しにおいて示される慈悲と愛は、まさしく日本的霊性の神髄とされる
       「絶対者の無辺の大悲の光の中にわが身を投げ入れ、この大悲に摂取される」ことに
       つながるものではないだろうか。

である(p.164)。上掲の目次から明らかなように、「創造」だけが論じられているわけではない。

「おわりに」のカトリシズムと大乗仏教を、信仰の宗教、悟りの宗教と分け、カトリシズムの霊性と日本的霊性の微妙な相違が整理されている。著者は、

       [両者の]衝突とも見える対立は厳密な意味での矛盾的対立ではなく、絶対者(神)と人間との
       関係を考える際の微妙な論理の食い違いによるものではないか、と考えている

と述べる(p.297)。そして、解決の鍵は、第二章第三節で詳述されるクレルヴォーのベルナルドスの立場が適当だろう、と述べておられる。

脱線であるが、先日勤務先の修学旅行に同行し、薬師寺にも立ち寄った。金堂の壁面に注連縄が掛けてあることに気づき、寺域境内の外の「休ヶ岡八幡宮」が気になり、鳥居の脇の案内板を初めて読んでみた。「神仏習合」を評価し、その復活を図っているとあった。神仏習合は「日本的霊性」の根底にあるものだとは思うが(山岳信仰 - 修行 - 比叡山・千日回峰行など) 、明治初期に極めて乱暴な形で、否定され、神仏は分離されたものである。復活と言っても、果たして、仏教の方で受け入れられるだろうか。個々の寺院の立場というものもあるだろう。またまた話は飛ぶが、鎌倉駅近くの古刹の住職に会ったとき、市内の古い神社の宮司の墓所ともなっていることの話題から、実は、明治になってからは神社に威張られ、その前の江戸時代には隣接する幕府系の太田道灌ゆかりの寺院に圧迫されたと伺った。これらは事実とは言え、お坊様もなかなか執念深いのである。




テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
249.前回、稲垣先生や鈴木先生の本を改めて論じたいと言いながら、なかなか進まないまま、新聞広告で気 ナイーヴな数学者のブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる