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zoom RSS 257.先日の雨模様の日、夕方には雨が上がるというので、最低限の買い物のつもりで

<<   作成日時 : 2017/04/17 15:38   >>

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先日の雨模様の日、夕方には雨が上がるというので、最低限の買い物のつもりで自転車で天神に出た。ところが買い物を済ませて外に出ると、細かい雨が降っていた。傘は持っていたが、自転車でもあるし、コーヒーでも飲みながら雨宿りをしたいと考えるのは自然だろう。実は、数日前から

       布施英利:人体 5億年の記憶 解剖学者・三木成夫の世界
              海鳴社.2017
              ISBN 978-4-87525-330-3

を読んでいるのだが、携行しなかった。そこで、ジュンク堂に飛び込み、結局、

       G.ウィロー・ウィルソン:無限の書
              東京創元社.2017
              ISBN 978-4-488-01461-2(翻訳:鍛冶靖子)

を買い求め、アクロスのロビーでコーヒーを飲みながら、同書に目を通しつつ、30分くらい過ごしたが、雨が弱まる気配はなかったので、自転車を置いたまま、バスで帰宅した(翌日は好天であった)。

そんなわけで、布施氏の書物は後回しにして、ウィルソンの方から行こう。これはファンタジーである。原書は2012年刊。いくつか賞を取っているそうである。

舞台は、アラビア半島のどこか、非常に古くからある、海沿いの町のようだが、近くに油田があって繁栄している。このため、各地からの移民が集まって、市域が広がって住民構成も複雑になっている。しかし、頑とした階層社会を成しており、富も統治の権限も王族を中心とした古くからの住民に集中している。こういう町(シティという)であるが、ICT環境は素晴らしく整っているようである。20〜21世紀の最先端技術を使いこなすということと、統治体制が本質的に古代のものであるということには、矛盾はないようである(典型的な例として、われらが「隣国」が挙げられよう)。最先端技術は(生きるための)「機能」に関わり、統治は(生きるという)「感情」に関わるからであろうか。

ウィルソンのファンタジーは、現代風の味付けがされたアラビアン・ナイト(千一夜物語)の後日譚の世界であり、ICTの(闇)サービスの提供や管理で生きている主人公や敵役の人間たちが実はアラビアン・ナイトの世界に日ごろから生きていて、それは、クルアーンにある世界創造の教えに従えば、当然であるということになる。こういう前提で物語が展開されるわけだが、アラビアン・ナイトとの違いは、「千一日物語」という謎の古文献が(当世風に言えば)AIのディープ・ラーニング機能の不断の改善を支配しているということだろうか。

ここで、多少回り道をして、ICT環境の整備を関連の整備を「文明」の側面とし、昔ながらの社会構造を「文化」の側面と思ってみよう。

実は、254回記事で触れた(前職での最後の高校卒業式の)式辞の構成を、まず、現代の混乱について、「文明」と「文化」とを対比させ、「文明」は機能に関わるもの、「文化」は感性に関わるものと定義し直せば、それは「文明」と「文化」の調和が崩れているからであると指摘し、その上で、卒業生諸君がなすべきことを提案するという形にした。ウィルソンは、そういう「不調和」の世界の一例を描いて見せているとも言えるかもしれない(わたくし自身は、式辞で、Brexit や Trump 現象を例として挙げた)。

ただ、わたくしの教養で、「文明」や「文化」のようなことを言うのには難がないとも言えないし、実際、古今東西の碩学の論考が世に溢れているに違いない。もっともらしいことを言っても、このような、わたくしの二元論が素人の思い付きの域を出ないことは承知しているつもりではある。もちろん、いろいろな文脈で、二元論的な対比は重要であり、それは、「有無」に帰着される2進法の世界が(無限を許容すれば、アルゴリズムによる記述に留めても)膨大な現実世界を(原理的には)ほぼ覆ってしまうことを想うと、不思議なことではあるまい。

もう一箇月以上経ったことではあるが、上掲の式辞で「文明」と「文化」を対比させたものの、それぞれ定義に拙速なものを覚え、ずっと反芻してきた。あのときは、一応、

        「文化」を、人間の世界の、どちらかというと、生物としての側面からの把握、つまり、
       社会にせよ、行動にせよ、基本的に感性に基づいて捉えて、一人ひとりが具体的に
       感じることができる経験や情緒に基づいた世界認識あるいは人間環境を指すもの

とし、

       「文明」を、人間の世界を、どちらかというと、機能やそれを支える技術の側面に基づいて
       捉えようとする姿勢

とした。

「文明」は、「交通」「通信」「決済」などの手段に関わることであるが、「文化」についての記述の長さに比べて、この表現は短すぎないか、ということも気になっている。しかし、このように、「文化」と「文明」を、方向性の異なるものとして、把握できるのではないか、という発想が先にあるのである。

ところで、「文化」にせよ、「文明」にせよ、それぞれが成り立っている「場」というべきものがある。この「場」は、自然地理的かつ人文社会地理的に領域であり、歴史的な記憶とともに、現在も、活発な活動が生起しているところである。特に、この意味の「場」として、地球全体やその上での(人間に関わる)活動を意識した適切な表現は何だろうか(斎藤成也氏の「歴誌主義」など、ヒントとなりそうなアイデアが最近目立つような気はしている ― 一方で、「国際社会」などという曖昧な語彙も横行しているが)。

「場」に関しては、「文明」は(技術的・時間的な制約を別にすれば)基本的に無限の拡がりの可能性がある。しかも、今日では、地球全体が「文明」の「場」になっていると考えてもよいだろう。「文化」に関しては、そうは行かない。「ナントカ文化」という言い方が自然なように、「文化」は「場」と密着しており、しかも、その「場」は狭い。「異文化交流」という言葉が意味を持つゆえんである。

なお、布施氏の書物で紹介されている三木成夫先生の人体観では、「動物的な体」と「植物的な体」に二分され、同書(p.128)に表として示されているが、前者は「感覚」、後者は「観得」、そして、前者は「意識」、後者は「こころ」の場となっている。大雑把に考えれば、「文明」は三木氏流の「動物的」なものであり、「文化」は植物的なものと言ってよいかもしれない。きちんとした議論のためには、もちろん、はるかに精緻な考察が欠かせないことは言うまでもない。

問題は、このような「文化」「文明」のアイデアで、現代の世界の混乱が適切に把握できるか、そして、有効な提案を示唆できるか、ということなのであるが、さて、どうか。

付記(平成29年4月20日):ところで、当ブログの趣旨に密着した視点から見れば、「文明」と「文化」を二元論として捉えるのは適当ではないかも知れない。(加齢による?劣化?で)適切な語彙が思い浮かばないが、二元論ではなく、双対論(dualism)と見るべきかもしれない。要するに、「文明」は「道路」であり、「文化」は「街区」であるとするのである。日本の(土着の)行政思想が「街区」的なものへのこだわりであるのに対し、大陸系では「道路」的なものが先にあることは、それぞれの都市を歩くだけでわかる。だが、それで・・・。



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